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2007年4月14日 (土)

「牛」

 (12:44)

高村光太郎

「道程」 より





牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まつすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を堀り土を掘り石をはねとばし
やつぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼つて行く
自分を載せてゐる自然の力を信じきつて行く
ひと足、ひと足、牛は自分の道を味わつて行く
ふみ出す足は必然だ
うわの空の事でない
是でも非でも
出さないではいられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は後へはかへらない
足が地面へめり込んでもかへらない
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしやらではない
けれどもかなりがむしやらだ
邪魔なものは二本の角にひつかける
牛は非道をしない
牛はただ為たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない
けれども牛は正直だ
牛は為たくなつて為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の自信を強くする
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
自然を信じ切つて
自然に身を任して
がちり、がちりと自然につつ込み食い込んで
遅れても、先になつても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思はない
牛は自分の孤独をちやんと知つてゐる
牛は食べたものを又食べながら
ぢつと淋しさをふんごたえ
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいつて行く
牛はもうと啼いて
その時自然によびかける
自然はやつぱりもうとこたへる
牛はそれにあやされる
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思い立つてもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡知にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちやを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるほいのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の眼だ
牛は自然をその通りにぢつと見る
見つめる
きょろきょろときょろつかない
眼に角も立てない
牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとつての努力ぢやない
牛にとつての当然だ
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争はない
争はなければならない時しか争はない
ふだんはすべてをただ聞いてゐる
そして自分の仕事をしてゐる
生命をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機ではない
ねぢだ
坂に車を引き上げるねぢの力だ
牛が邪魔者をつつかけてはねとばす時は
きれ離れのいい手際だが
牛の力はねばりつこい
邪悪な闘牛者の卑劣な刃にかかる時でも
十本二十本の槍を総身に立てられて
よろけながらもつつかける
つつかける
牛の力はかうも悲壮だ
牛の力はかうも偉大だ
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えてゐる草を食ふ
そして大きな体を肥やす
利口でやさしい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた啼声と
すばらしい筋肉と
正直な涎を持つた大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く



底本:高村光太郎詩集
出版社:岩波文庫、岩波書店
初版発行日: 1955年 3月25日、1981年 3月16日 第29刷改版
入力に使用: 1996年 2月5日 第55刷
入力: 孝輔



BGM:(ラベル:ボレロ)海外の音色   

http://kaion.real-sound.net/

TAM Music Factory

http://www.tam-music.com/index.html


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■ 孝輔のひとこと

今回は、流木さんからのリクエストのあった
高村光太郎の「牛」です。
この「牛」は、高村光太郎の化身です。
すばらしい、牛です。
この詩を読んだ時、私は、年甲斐もなくウルウルしてしまいました。いつかは、やろうと密かにイメージしていた「牛」の詩です。
この詩を詠んだ時に、BGMは「ボレロ」しかないと
以前から思っていたので、選曲はOKでした。
しかし、朗読をどのようにするか・・
これが、難しかった・・。ボレロがボロロに・・・(ーー;)
朗読の仕方も色々あるでしょう。長い詩なので、抑揚をつけて
朗読すると、聞いてる方も疲れてくると考え、結局、わざと、抑揚のない語りで、朗読して、最後に、いかに、この大クレッシェンドに持っていくか・・ここがポイントでした。しかし、この抑揚のない朗読が非常に難しい・・・私の意図汲んでくれれば幸いです。
やっぱ素人朗読の限界ですね、意図したとおりにならん・・・
時間もないし・・まぁいっか・・・それと、コマ切れの録音は、ちょっと痛かったな・・( -ω-;)y─┛~~~~~ボソッ (笑)

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コメント

 孝輔さんへ
お忙しい中 リクエストに、おこたえいただきまして、有難うございました。私が この詩の朗読を、初めて聴いたのは、40年以上前の 高校のときでした。(光太郎の存命時 花巻での一人暮らしの様子を映像で観たのを鮮明に記憶しています)以来すっかり光太郎のフアンとなって、その 足跡を訪ねたり、彫刻作品にも興味を持つなど影響を受けました。10年程前に、牛の朗読をテレビで 聞いたことが ありました、そのときは演出が派手というか?あまりにも、力を入れ 声をふりしぼっての熱演に 驚きました。今回 聞かせていただいて、(晩年の高村光太郎が)朗読をしているような 錯覚にとらわれました。今は、光太郎の詩碑の ある近くで暮らしています。混迷を深める現代 このようなサイトに巡り合えて喜んでいます。有難うございました。これからも 本ホームページが、多くの人に 生きる勇気と 癒しを与えつづけて いただきたいと思いました。

投稿: 流木 | 2007年4月14日 (土) 13時02分

孝輔さんの朗読は、
ふしぎに納得させられるなにかが
あるような気がします。

たぶん、それは
言葉を音声化しているのではなくて、
心象を音に置き換えているから
ではないかと思います。

けっして押し付けないのに
つたわってくるんですよね・・・

投稿: Suzuka | 2007年4月14日 (土) 17時21分

流木さんへ
拙い朗読ですみませんでした。
また、聞いて頂いてありがとうございました。
私も、この光太郎の「牛」を読んだのは学生の頃でした。但し、全文ではなく、テストの問題として一部抜粋として出たのを記憶しています。
あれから、(@'ω'@)ん?十年・・←変換したら登録顔文字が・・・(笑)
この年齢になって、この詩の、もつ意味がひしひしと伝わってきます。平凡な人生を過ごす事の意味、またそれを、継続する事の大変さ・・。
平凡を継続することで、非凡になり、振り返ると、自分の後ろに道のりが出来ている。まさに光太郎の「道程」の如しだなと・・。もともと、朗読をやろうと思ってやり始めた訳ではなく、たまたま、チャット部屋で、ラジオの真似事をやっていて、その中で、詩の朗読や小説の朗読をやり始めたのがきっかけです。小説は、いろいろな人がやってますが、こと、詩に関しては、あまりやっている人がいないので、詩の朗読に特化してやろうと決めて、やり始めて今日に至りました。もう一年にになりました。これからも、いつまで続くか定かではありませんが、詩の朗読という、小説の朗読とはちょっと違った領域(私だけかも知れないが・・そう思っている)の活性化や、私の後続がどんどん出てくる事を期待してやりたいと思っています。


Suzukaさんへ
感想ありがとうございます。
そうか・・心象を音に置き換えてるからか・・
改めて納得・・
私が朗読をはじめると、猫がニャーニャーと鳴くんですよ・・何故か・・
音のサイクル、波長ですかね~
それが、響くのかも知れないですね。

ちょっと余談ですが、私のおばあさんって言う人は
とても仏教に信心深い人で、信心深いということも大人になってわかった事なのですが・・
私が小さい頃、まだ小学校にも通ってない頃
私の両親は共働きで、私はいつも近くのおばあさんの家に預けられていたんですよ。
おばあさんの家には大きい仏壇があって、朝昼晩といつもお経が唱えられていました。小さい頃からリズムがあって音楽的なお経が私にとっては、まさに日常の音楽であり、ゆりかごの歌だったかもしれません。
大人になって、人の生き死にを見てきて、仏教であるお経とか聞くと、あの頃の記憶がよみがえります。
仏壇に飾ってあった桃色の桜の花(紙で出来た奴)
私が転んで足を打ったり手を挟んだりして、泣いて帰った日に、あばあさんが、仏壇のその花弁を、仏様にあげた湯飲みの水に浸し、私の痛いところにつけてくれた記憶を・・・。これが、不思議と、痛みが和らいだ・・・。

なにか通じるものがあるかも知れないですね・・・。


投稿: 孝輔 | 2007年4月14日 (土) 19時21分

 時間が、できると ポエムの窓の 朗読を聞かせて いただいて、元気をもらっています、有難うございます。
 コメント欄への投稿をするのは、いかがなものかと躊躇したのですが、些細な、字句が気になりましたので、投稿させていただきました。詩の31行目 牛の為た事は牛の自身を強くする とありますが、Web検索をしましたら、やはり、同文の ものもありますが、
 (http://ao123.dyndns.org/blog/index.php?mode=past_show&date=200401)で、紹介されてるのは、牛の為た事は牛の自信を強くする とあって、自身と 自信の表現の 違いは 微妙な感じもしますが 詩の原稿は 見たこと無いので、判りません。気にするような、事でないと 思っていますが、どなたか?愛聴者の方で、ご存知でしたら、ご教示ください。孝輔さんの、朗読詩{牛}は もっとも心に、沁みました。

投稿: 孝輔さんへ&愛聴者さんへ | 2007年4月20日 (金) 20時20分

おお~これは、私の入力間違いですね・あらら
さっそく、訂正させて頂きました。他にも、三箇所、間違いがありましたので、訂正いたしました。
ご指摘ありがとうございました。ε-(;ーωーA フゥ…
うーん、朗読も難しいがテキスト掲載も難しいですね・・改めて、痛感・・。


投稿: 孝輔 | 2007年4月20日 (金) 23時05分

ああ、感激
約20年前、よく読みました。高村光太郎
萩原朔太郎、立原道造、島崎藤村、中原中也・・・・
懐かしい。結婚するとき詩集を友達に上げてきました。今手元にあるのは、数年前に買った水野源三さんの第一詩集だけです。また来させて頂きます。
感謝。
わたしは、一年ほど前から詩を書くようになりました。まだ新米です。

投稿: がいあんとびあん | 2007年6月12日 (火) 23時56分

水野源三さんですか・・
ネットで調べてみました。なるほど、
山村暮鳥も、たしかクリスチャンでしたね。
がいあんとびあんさんも詩を書いてらっしゃるんですね^^
拝見させていただきました^^
とても、素直な作品がいっぱいあって、いいですね。
これからも、がんばって更新してくださいね^^

投稿: 孝輔 | 2007年6月14日 (木) 17時30分

どうも、はじめまして。
そして、
明けましておめでとうございます。

光太郎「牛」の朗読に感動し、今日のblogにリンクさせてもらいました。事後承諾になりますが、よろしくお願いします。<(_ _)>
http://rikadiary.cocolog-nifty.com/kusuda/

投稿: 楠田純一 | 2009年1月 2日 (金) 04時43分

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